No.057 / 2008年11月13日

「浮標」


  当店がオープンして間もなくからお付き合いさせていただいてきたSさんファミリーが、とうとう念願のパティスリー&カフェ「Ichie」の開店に漕ぎ着けま した。パティシエールのYasumiさんとご主人、そしてお姉さんの3人が力を合わせて築き上げた可愛いお店の、長い長い航海が始まりました。オープンす る前から、当店のお客さんに宣伝しまくってしまいましたので、「Ichieさんに行ってきましたヨ」なんて声を掛けてもらうと、まるで自分のお店のように 気になってしまって、「どんな感じでしたか?」と根掘り葉掘り聞いてしまうのです。




 皆さん一様に「美味しかったですヨ!」と開口一番におっしゃるのですが、さすがに食にはちょっとコダワリを持つ皆さん、美味しかった・・・の後に様々な ご感想を述べていかれます。「こだわった材料を使って、大量生産ではなく一つ一つ手作りしているケーキが、あんなお手ごろなお値段でいいのかしら」とおっ しゃるお客様。「そうなんですよ、すごく丁寧な仕事ですからねえ」と私。かと思えば、「でも、ワンパク盛りの子供がいるので、もうちょっとリーズナブルな ケーキも欲しいかも」というお客様。「ふむふむ、そのようなご意見もあるでしょう」と私。それで、肝心要のケーキの味の話しになると「甘さ控えめでちょう どイイ」というお客様が大半ですが、「もっともっと甘いのがイイ」とか「ちょっと甘すぎかな」とか、これはもう千差万別で、個人の好みでまったく意見が異 なります。自家焙煎珈琲豆のような趣味性の強い商売と違って、さすがに老若男女を問わずに皆が大好きなケーキですから、皆さんがおっしゃる感想はもう本当 にいろいろで、こんなにたくさんの皆さんの肥えたクチを満足させていかなくてはならないというのは、なんと大変な商売だろうと思った私です。

 パティシエールのYasumiさんが、お店をはじめる事になった時、「何かアドバイスがありますか?」と私に聞かれたことがあります。きちんとした洋菓 子スクールで基本を学ばれて、パリで修行されてきたYasumiさんに、私ごときがアドバイスできることなどあるはずもないのですが、ちょっとばかり早く お店を始めた先輩として、1つだけアドバイスさせていただきました。それは、

 「インターネットで自分のお店のクチコミを検索しない」

 いまや一億数千万人・総評論家時代。インターネットの普及にともなって、自分が訪ねたお店の批評をみなさんバンバンと書かれます。その中にはお褒めの言 葉もあれば、ダメ出しの言葉もたくさんあります。もちろん、そんなお客様の声を聞くことはとても大事な事だというのは理解しておりますし、それを無視して いたら「井の中の蛙」になってしまうことも承知しております。でも、冒頭で書かせていただいたように、人の好みは本当に千差万別。それら個人の価値観や判 断基準で下されたコメントに、あまりにも神経質になってしまって落ち込んでしまうような事があって欲しくないのです。

 かくいう私は、お店をオープンしたての頃、私のお店に対してあまりよろしくない評判の書き込みを見つけてしまったことがあって、それはもうド〜ンと深い 井戸の中に突き落とされたように落ちこんでしまったのでした。そんな経験もあって、自らの店の評判をネットサーチするというような事はしないことに決めた のです。商売をする者として、お客様の生の声を常に聞かなくてはならないのはもちろんのことです。でもそれは、きちんとアンテナを立てていれば、自然と自 分の耳に入ってくるもの。インターネット社会がもたらした様々なイジメ現象や犯罪の数々を見ても、ネット上にいとも簡単に書き連ねられた無数の言葉に、常 に真剣に向き合えるほど、一人の人間が強いものだとは到底思えません。

 オープンして1ヶ月が過ぎ、そんなお店の風評を気にする時間も取れないほど忙しいご様子。寝る間も惜しんでケーキと向かい合っている「Ichie」ファ ミリーの皆さんが体調など崩されるような事がないことを祈るばかりです。最後に、私自身が客として「Ichie」のケーキを美味しくいただいている一人の 立場から、気がついたことを少しだけ書かせていただきたいと思います。


 これは「Ichie」のタルトの裏側。タルトや、モンブランのようなクッキー状の固めの底を持つケーキは、ひとつずつホ ワイトチョコレートで台紙に固定されています。

 さらに、持ち帰り用の紙箱に詰める際には、それらの台紙の裏に粘着テープを使って、ケーキが箱の中で暴れな いよう、1つ1つのケーキを箱に固定してくれます。店内がどんなに混雑しようとも、Ichieの皆さんは愚直とも思えるほど、ケーキをいたわって扱ってい らっしゃるのです。

 ケーキを購入された方の中で、どれくらいの方がその優しさに気がついてくれるのでしょう か。中には、それを何とも思わない方もいるかもしれません。それでも、その少しばかりの親切の中に込められた、とてつもなく柔らかな温もりを理解してくれ たお客様はきっと、「Ichie」という小さな小船がこれから進んでいかなくてはならない大海を、迷うことなく案内してくれる永遠の浮標になってくれるに 違いありません。



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