No.042 / 2006年11月28日

「 タイムマシン」


 
 店主も今月をもちまして40歳になりました。 「40にして惑わず・・・」などと良く言いますが、自分にあてはめてみますととんでもない話しで、今日もあれこれと戸惑うことだらけです。子供の頃の自分 の父親がどうだったかを思い出してみると、何をするにも決断力があり、何ものにも動じない威厳があったものです。自分がかつての父と同じ年齢になってみ て、あらためて自分を顧みると、そのいい加減さにどうしようもない焦りと苛立ちを覚えるのです。40歳なりの落ち着きと風格が店主に備わるのは、いったい いつのことになるのやら・・・

 あらためてこの40年という歳月を振り返ってみると、その生活ぶりの激変を感じざる得ません。自分が幼い頃の生活ぶりを思い返してみると・・・

 各種の野菜を畑で作るには当然のことで、季節ごとの新鮮な野菜が食卓にならんでいました。季節ごとの漬物もいろいろと作っていて、中でも寒い季節の漬物 の準備として、冷たい水で菜っ葉を洗う「お菜洗い」は、手伝わされるのが嫌でたまらなかった記憶があります。野菜の栽培の他にも、春から初夏には裏山へ山 菜を採りに出かけ、秋にはキノコを採りに行きました。当時はまだお風呂を焚き木をつかって炊いていましたので、焚き木になる小枝や、炊きつけに使う松葉を 家 族総出で採りにいったものです。焚き木で炊いたお風呂は、現在の風呂の湯に比べ、体の芯まで温めてくれたように記憶しているのは、あながち間違いではない と思います。

 我が家にはいろんな動物がいました。イヌ、ネコのほかに、ニワトリを飼っていて、産みたての卵を手にいれることができました。ヤギもいました。ヤギの乳 から絞ったミルクは我が家以外にも好きな方がいて、たまに幼かった私がおつかいを頼まれ、ご近所の家におすそ分けにいった記憶があります。このヤギはヘタ に後ろから近づくと、後ろ足で蹴り上げてくるので、私はあまり近づかないようにしておりました。そのほかにウサギが数羽おりまして、これは何のために飼わ れていたのか憶えてないのですが、ごくまれにウサギの肉が食卓に出ることがありまして、今考えると・・・・・・

 このように完全な自給自足ではないにしても、様々な形で、自分たちの食生活を支える工夫をしておりました。そのほかに必要なものは、歩いていける距離 に、魚屋、肉屋、雑貨屋などがありまして、どの店も小さいながらに地域の生活には欠かせない存在でした。現在は大きな駐車場のある大型店で買い物をする時 代になりましたので、これらの店は、今では、ほぼ全ての店が営業しておりません。とても残念なことです。

 ケーキはまだバタークリームの時代でした。町に一つだけケーキ屋さんがありました。無口なおじさんがやっているケーキ屋で、通学途中の神社の脇の横道に 入っていったところにあるそのケーキ屋は、まさに地域の人たちのためだけに存在しているような地味な店でした。誕生日には母が予約を入れておいてくれて、 私と兄でケーキを受け取りにいったものです。店にいったら、おじさんがケーキの注文をすっかり忘れていて、ゼロからケーキを作るのを眺めていたこともあり ましたし、自転車の荷台にくくりつけたケーキを落としてしまい、ケーキをぐちゃぐちゃにしてしまって、大泣きで誕生日どころではなかったこともありまし た。このケーキ屋も今はもうありません。

 学校の近くには文房具屋があって、この店で売っている駄菓子は、こどもたちの必需品でした。10円から30円くらいで買える「きびだんご」や「イカの 足」が人気でしたが、店主の好きだったのは、短いストローのようなものに白いハッカのような粉が詰めてある「マンボ」という駄菓子です。今考えるとワケが わからない代物です・・・。妻が育った栃木県では駄菓子屋では「もんじゃ焼き」を供するのが定番だったようですが、私は「もんじゃ焼き」なるものを見たの は大学生になってからです。店番をしているおばあさんが、カメからすくった水とき小麦粉を目の前で焼いてくれるのだそうです。この話しを妻から聞くたび に、店主はうらやましく思うのでした。妻にしてみると、「もんじゃ焼き」は駄菓子の延長であり、たいそうな店構えの「もんじゃ焼き屋」で食べるもんじゃ焼 きとは明らかに一線を隔するもののようです。

 電話のほかに、「有線」なる黒電話機が置かれておりました。これはその名の通り地域をケーブルで結んで、通常の電話と同じく番号を押して、よそ様の家庭 と通話するわけですが、こいつはいつも消防の連絡だとか、集会の連絡だとか、置いたままの受話器から放送がなる仕組みになっていましたので、ちょっとうる さい存在でしたが、地域に必要な情報が常に流れているという、今思えば大変にありがたい仕組みでありました。大抵の家庭には「電話」と「有線」が置いてあ り、クラスの名簿には両者の番号が必ず併記されていました。子供同士の連絡は、なぜかきまって「有線」でかけるのが基本でした。電話だって線でつながって いるのですから「有線」なわけですが、どうして「有線」だけが有線なのか・・・などというくだらない疑問を抱くこともなく生活しておりました。

 
 
 ちょっと思い出すだけでも、まるで今の暮らしぶりとは異なる、まるで異次元ワールドかとさえ思うほどの生活です。でも、何だかなつかしくて、あったかく て、優しくて、とても今では手に入れることのできない贅沢がたくさん詰まった暮らしだったと思うのは、店主だけでしょうか・・・

 たった30年〜40年前に存在していた文化が、次々と消失していきます。私が年老いておじいさんになった時、そこにはどんな文化が待ち受けていることで しょう。今の子供たちが大きくなった時、そして過去を思い出した時、それは暖かなものとなって現れてくれるのでしょうか。

 できることであれば、今と変わることなく、小さな小屋で珈琲豆を焼いている偏屈な店主の姿が未来にも確かにあることを、40歳になった店主は願ったので した。
 


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